チェコの有名観光地、チェスキー・クルムロフ。チェコを訪れた旅行者は必ず訪れるであろう観光地。ドイツやオーストリア地域を周遊する際にも寄られる場所だ。
世界遺産にも登録されており、中世の雰囲気を残した町並みは人気が高い。
しかし、僕は大学の「世界地誌」という授業で東ヨーロッパの地誌を勉強した際に「チェスキークルムロフは人工的な街である」と先生から言われた。
訪問後に知った僕は衝撃を受けた。その言葉が今でも頭に残っている。
では、何故「人工的」なのか。歴史を振り返りながら、先生が教えてくれたチェスキー・クルムロフの真実を見ていく。
歴史
チェスキー・クルムロフの歴史を振り返ることにする。
現チェコの南ボヘミア州に位置するが、昔はボヘミア国の支配に置かれていた。
13世紀後半以降は、 城砦と都市の発達により木材の集散地として栄えた。
そして、ボヘミア王国で資産が多いドイツ系貴族・ローゼンベルク家が所有。
しかし、同家の財政破綻により、借金代わりに町を売ることを決めた。借金の肩代わりが町というのも凄いレベルである。
当時は「クルマウ」と呼ばれていたチェスキー・クルムロフ。1719年にシュヴァルツェンベルク家が相続したことで雰囲気が変わった。
前の王家から町をバロック様式にする流れがあったのが、この王家になり城を完全にバロック様式にしたのだ。町内にある大きな劇場もバロック様式となっている。
この頃、完全にドイツ語圏の世界に置かれているクルマウ。
ドイツ系住民が支配階級であり、チェコ系住民は被支配階級とドイツ人とチェコ人との間で政治・経済・社会的階層があった。しかし、インドのカーストのように生まれた時から階層が決まっているので、ドイツ系とチェコ系で共存し合って生活していたのだ。
1867年にオーストリア=ハンガリー帝国の一部となる。
19世紀後半になり、ドイツ語オンリーの世界であったクルマウ。しかし、チェコ語という公用語や学校教育におけるチェコ語、製版文化が浸透し新聞や読み物の増加、チェコ文化の重視などにより、チェコ人のナショナリズム高揚と言語問題が次第と出てきた。
今までは「ドイツ人によるドイツ語の世界」であったけど、そこは民族だ。「チェコ人によるチェコ語の世界」を期待するようになり、支配されてきた人々の間で民族意識が次第と芽生えてきた。これにより、階層社会であったけども、ドイツ系、チェコ系の共存の終わりを迎える。
ちなみに1910年当時、人口は8,662人であったが、ドイツ系が7,367人、チェコ人が1,295人とドイツ系が大部分を占めていた。
第一次世界大戦が終わり、クルマウを支配していたオーストリア=ハンガリー帝国は敗戦により、帝国崩壊。その後、チェコスロヴァキア領になったことで、町名が「クルマウ」から現在の「チェスキー・クルムロフ」に変更された。
チェコスロヴァキア領になったことで、今まで支配を続けていたドイツ系住民が少数派となり、チェコ全体でドイツ人の政治的不満が高まっていく。
すると、1938年にナチス・ドイツが「チェコスロヴァキア領にて、我が国民の住民権利が侵害されている」ということで、チェコのボヘミア地方からドイツのズデーテン地方へと併合してしまった。
このことが、チェスキー・クルムロフが崩壊していく瞬間となる。
すぐにナチスの軍事基地が置かれて、ドイツ人兵士により、町内の多くの建築物が破壊されていき、バロック様式による美しい街並みは面影をなくしていた。
第二次世界大戦により、ナチスが敗戦すると、チェコスロヴァキア大統領令が敷かれ、国内にいる約300万人のドイツ人を市民権や財産没収とし、追放をした。このことで、各地で人口が減少。1950年には6,899人まで人口が減ってしまった。
当時、共産主義でソビエトの属国となっていたチェコスロヴァキア。ドイツ人が消えたことにより、東欧で放浪をするロマの流入、自国民のチェコ人・スロヴァキア人の流入、住民の入れ替わりにより、景観が変化。そして共産主義支配ということで、既存の文化が完全否定。城はノータッチとなる。
ソ連特有の住宅団地が郊外に造成されると、旧市街地は空洞化、老朽化となり、ゴーストタウンとなってしまった。
だが、社会主義からの脱却によりチェスキー・クルムロフは変わっていく。
1963年に、チェスキー・クルムロフが国の文化財に指定されると、1968年のプラハの春により、変革。民主化へとなった。考え方が一変することで、チェコは変化していく。
1992年、世界遺産に認定されたことで、チェスキー・クルムロフに光が挿す。
世界遺産登録されたことで、チェコ国内問わず、外国から色んな人たちによる寄付や投資が行われた。ゴーストタウンを修復する、ということで立ち上がった人たちに加えて、大きなお金が流入したことで、街並みを中世のように整備し、荒れ果てた城や家々を修復。レストランやカフェなどの商業施設を作り上げた。
また、ビール会社として有名なエッゲンベルク醸造所をここチェスキー・クルムロフの地に再建したことにより、国際観光都市としての発展していく。
そして2014年、チェスキー・クルムロフには世界各地から観光客が訪れるようになった。今では「世界一美しい街」と言われるぐらい有名な場所となったのだ。
生活感がない町並み
以上の歴史から「光と闇」を味わってきたチェスキー・クルムロフ。昔からずーっと中世の街並みが保存されてきたわけではない。
チェスキー・クルムロフが再建されたのはここ20年の話。つい最近のことだ。そこから建物を修復したりしていったので、ワルシャワ同様、人工的な雰囲気が漂うのだ。
つまりは旧市街に居て、地元民が生活しているような「生活感」はあまり感じられない。それは、世界遺産になったことで、国際観光都市へしていくためにカフェやレストラン、お土産屋などが人工的に作られたから。
そこで商売するのは、生粋の地元民もいるだろうけど、プラハなどからの「他県」の人である。ビジネスで来ているのだ。
僕が町を歩いていて、抱いた違和感が解決。歴史を見ることにより、先生が言った「人工的」という言葉に納得した。
中世の町並みは美しかったし、ワクワクもした。けどどこか物足りなさがあったのだ。同じ昔の雰囲気でも、スペインやイタリアでは生活感がありすぎていた。プラハもローカルな雰囲気も漂っていた。
だけど、ここチェスキー・クルムロフはどこか「テーマパーク」にいるような感覚であったのだ。
夏の昼、人口が少ない町で外を出歩くような人は観光客ばかり。しっかりと道も整備されているので、ゴミもあまり落ちていないし、観光客が歩きやすいようになっている。
「絵になる景色」だ。写真で見れば。だけど、実際に訪れて空気を肌で感じてみると、少し違和感を覚えることが分かってくる。
観光地としてのクルマウ
アジア人の観光客が多いチェスキー・クルムロフ。確かにアジア人が好きそうな雰囲気である。
町を歩くと、日本人、中国人、そして韓国人の姿が多く見られる。特にチェコがブームとなった韓国、個人に限らずツアー客がたくさん来ていて、かなりの数を見かけた。
ここは確かにアジア人を引き付ける町だと感じた。
アジア人が好きな「中世の雰囲気を感じられる」街並み。みんな大好物であろう。ここは小さな町であり、プラハからも日帰りが可能、ということで宿泊せずに出ていく人が多い。
外国人観光客が白川郷を好むのと同じ、「テーマパーク」のような場所なのである。
城には熊の姿が。これもテーマパークの一部である。
町内を流れる川でもカヌーなどのアクティビティがある。
姿を見ると欧米人の姿が多い、彼らは街並みを楽しむというよりかは、雰囲気とアクティビティを重視している。
東アジア系は街並みを楽しみ、伝統料理を食べることがメイン。そしてお土産を買う。テーマパーク的な過ごし方であろう。
ハッキリと旅行タイプが分かれる。これぞ観光地の特徴だ。
まとめ
長い歴史の中で、光と闇を味わってきたチェスキー・クルムロフ。特に1900年代は「闇」であった。だけど、現在は「光」。世界遺産に登録されたことで、この町の運命は変わったのだ。
観光地として「光」が射す中、一つだけ闇がある。それはロマだ。
ドイツ系が離れ、多くのロマが流入。チェコ人との同化している人も中にはいるけど、ロマ独自の生活様式、慣習から馴染めていない人たちも多い。
チェスキー・クルムロフでチェコ人の次に多いコミュニティがロマだ。旧市街を少し外れると、修復もされず、ボロボロになった家々が残されていたりする。ロマのコミュニティエリア。
治安は問題ないだろうけど、今なお激しい民族差別があることが分かる。民族はマジョリティになると、マイノリティを支配するのだ。これがヨーロッパの歴史でもある。
ヨーロッパの民族問題は歴史を振り返ると必ず出てくる。特に中欧、東欧は国境線が常に変化し続けた場所であるので、根深い問題。
おそらく「世界地誌」という授業を履修しなければ、僕はこのことに目を留めなかっただろう。気にもならなかったはずだ。華やかな部分だけを見続けたに違いない。
しかし、今は民族問題は自分の中で見てしまうところ。過去の悲しい歴史から注目してしまうのだ。ヨーロッパをよりdeepに見ていくならば、歴史を理解することも大切であると感じる。
決して華やかではないヨーロッパ、特に民族意識は永遠に問題となる事であろう。
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